業障と福報はこんなに簡単
五尺の円卓の作業台の上には、副理と組長、そして一人の師姉が口布を折っている。作業中、三人は意見を交換し合い、後学も参加して、皆が楽しく過ごしている。
「人はあまり計算する必要はない。来るときは両手が空っぽで、去るときも両手が空っぽだ。」師姉は口に出し、顔に笑みを浮かべている。
「何が空っぽだ?そんなものはない!必ず二つのものを持って行くんだ、業障と福報!」組長は聞いて急に顔を上げて言った。その声は雷のように響き渡り、皆が彼女を見つめた。
「運命を恨んでも仕方ない、あれやこれやと文句を言っても何の役にも立たない。人として修行せず、施しも知らなければ当然空っぽになる、一切が無になる!」仏門の弟子として、組長の考え方はシンプルだが因果関係や業障と功徳福報について的確に指摘している。
「何も持ち帰れない。ただ業だけが身についていく。」その通り、この言葉は仏門の警句であり、私たちがよく耳にするものだ。組長の業障と福報について称賛するとともに、彼女の道行きがこれほど高いとは思わなかった。一言で夢から覚まされるような感謝すべき法施だ。
仏教では「起心動念には罪も業も無いものはない」と強調されている。「罪孽業力」とは全て事象が因縁によって生じることを指し、どんな事柄も独立して存在することはできず、それらすべてが私たちの起心動念によって常に因果関係の中で回転していることを語っている。後学として、人間がこの世を去る時には外的な物質は必ず滅びるため、持ち帰れるものなど何もなく、自分自身についてくる心識だけである。普段の業障や功徳は
八識田に種子として残り、それらは私たちと共に絶えず循環し続ける。後学として修道とは業障から逃れることではなく、ただ功徳福報を求めることでもなく、有形的な美貌や財産、学問、健康、権力地位など外面的価値ばかり重視することでもないと思う。全ての業報と福報は自分自身で下した因であり、その因果関係を理解すれば果報から逃れられない理屈を受け入れざるを得ない。
今日からこそいつでもどこでも振り返り、自分自身を見つめ直し、自分自身の心に目を向けて世代から世代へ続く無知無明を取り除き、有能な知識者から不断に学び悟りながら、自ら精進して生活し智慧を開き円通し、その結果苦難や憂愁から解放される自由さえ得られるようになろう!by-陳導