靈識初醒(34)
修行は戻れない道なのでしょうか?あるいは修行の道に入ると、振り返る余地がなくなるのでしょうか?または、進まなければ人生には多くの災厄が待っているのでしょうか?人生が逆境にあるとき、最もよく耳にするアドバイスは「修行しなさい」ということです。しかし、何を修行すべきかについては様々な意見があります。これが初めて目覚めた者を混乱させ、不安や疑念を抱かせる原因となります。では、修行の目的は何でしょうか?修行の目標とは何でしょうか?人を良くすること。自分自身の人生を完璧にすること。それだけです。もし目的や目標が現実的でない場合、日常生活から離れて抽象的な議論をすることになります。それはまるで、人が霧に包まれた山中にいるようで、東西南北の方向もわからず、謎の霧に深く閉じ込められている状態です。
毎日さまざまな知識や情報を吸収し、異なる事柄を学ぶことが学びと修行です。そして毎日異なる人や事象に対処することが実践です。学びと実践は誰にでも毎日の仕事です。では、なぜ修行を強調するのでしょうか。それはこの学びと実践には尽きることがなく、不足もあるからです。私利私欲を主として立身処世すると、自分だけの利益のために争い勝ちたいという心が絶えず生じます。このような実践では理屈も通らず事も達成されません。そのため世間の人々の修行には障害が生じ、動けば動くほど煩悩が生じます。
禍福には門がありません。自ら招くものです。禍は福によって依存し、福には禍が潜んでいます。どうしてこうなるのでしょうか。それぞれ自分自身のために行動し、その行為は善悪の間にあります。禍福は善悪の間で相互依存しています。禅僧曰く:一念清浄ならば罪はいずこより来るか。禍福はいずこより生じるか。このため修行ではまず気づきの力を育むことが重要です。気づきとは善悪との関係性について心作用を見ることです。煩悩はどこから起こるのでしょうか。それを察知する力によって私的と無私との間を見ることです。「我」と「寿者」、四つの相による生滅があります。「人」であれば思考なしにはいられません。しかし気づきの力がなければ、自心作用について理事との関係性を見ることができません。私的と無私との体用、自性の覚醒は気づきの力によって深さがあります。また、自性の覚醒は同時に本来持つ般若智を引き出します。この智慧は顕れず、煩悩だらけになり止むことがありません。煩悩が絶えない限り、人々はその分別なくして行動できません。「経」に曰く、本心を知らざれば法学ぶにも益なし。本心を知れば理事無碍となります。この時こそ初めて修行への門に入ります。それこそ修行の始まりなのです。
by-劉鴻銘老師