本体を直に知り、本源に直達する
人の一生の問題は、根本的には自心と自心の問題であり、心と外物の問題は存在しません。なぜなら、心の外には物がなく、心の外には世界がないからです。すべての生き物から仏に至るまで、一生を通じて自心と自心との関わりを持っています。ただし、知っている者もいれば知らない者もおり、そのために全く異なる人生を歩んでいます。
凡夫は、一生を通じて自心から自心を取る無明な行動をしていますが、自覚している人は少ないです。菩薩は、自心を観察する内部作業を行い、自心が自心を取らないように努めています。仏は、一生を通じて自心を用いて、自心で大法海の中で遊ぶような覚醒した生活を送っています。
凡夫は、自心から自心を取ることで幻が幻となります;菩薩は、自心を観察することで便宜上自度となります;諸仏は、自心を用いて自心で大法海で遊びます。この三種類の人々は、心についての理解とその作用方法が異なるため、それぞれ異なる生活様式を送っています。異なる人々は、心についての理解が異なり、またその作用との関係も異なるため、三乗の違いが顕れます。
修行中の私たちは皆菩薩ですので、自心観自心の作業に取り組んでいます。自心を見る目的は、自心が自分自身を取らないように保ち、幻法の群れに入らず、単純で清浄かつ幸福な生活を送ることです。思念が浮かんでも消えても、私たちの本来のこころは失われません。本来のこころは得ることも失うこともできず、それだけそこにあり、その作用や変化によって神通力無限です。
千変万化しても、本性には変化がなく、それこそ私たちの本源的なこころです。このこころを識別し根源に達し、千変万化しても如如として動かず、それこそすべての修行者が最終的に達成すべきことです。色・受・想・行・識、および清浄な覚知すら、このこころによるものです。我々はこの使用から本質へ至り、本質から使用へ至ります。本体を直識し、本源に直達し、大いなる佛となります。
思念が実在か虚構か気にせず、覚知があるか無いか問わず、とにかく体験し、その結果として本質へ至ります。本体を識れば法塵につき従わず;本体を識ればあらゆる疑惑が断たれ;本体を識れば是非について問わず;本体を識れば万用任せになる;本体を識れば即ち如如として佛となります。本体探求し、本体認識し、本体使用し、本体によって超然としてすべて存在より上位になります。
by-台湾無畏如来芽大円満禅修センター