霊識の初覚醒(21)
霊が身体を強いるのはなぜか。本当にこの霊は自分の身体を強いるのだろうか?この身体と心と霊が一体となった人間は、まるで車のようだ。それぞれの性能は異なる。運転手はあなたであり、中にはあなた一人しかいない。東に行こうが西に行こうが、すべてあなたが決める。ただ、時々気を失ってしまうこともある。石や木、電柱、小さな穴にぶつかったり、泥沼にはまったりすることもある。これらの要因によって車が損傷したり、中にいるあなたが怪我をしたりする。これが人生の過程で遭遇する逆境だ。
思いもよらない不運な出来事もある。もっと深刻なのは、あなたが他人の車にぶつけてしまったり、他人の車が人にぶつかってしまったりすることだ。これは人と人との摩擦であり、正しいか間違っているかという問題ではなく、自分自身の気を失った結果によるものだ。他人を恨むことはできるだろうか?この車の性能や条件、本質は何なのか?それを最もよく知っているのはあなた自身だ。速さや遅さもすべてあなたがコントロールしている。そのため、車両の損傷や他者への傷害は運転手であるあなたに避けられない責任となるべきだ。自分自身を反省し、謙虚で慎重になり、怒りを他者に向けず、自分のできる範囲内で行動すべきだ。(最高速度180キロの車を250キロで走らせようとして事故を起こさない方法などあるわけがない)。そうすれば、この車は安全に順調に進むことができる。古人曰く、「素位而行」(自分の立場に従って行動せよ)、「務本盡份」(本業を尽くせ)。あなたはただこの車を上手く運転すれば良い。それこそ運転手としての本分なのだから。
この車は人生という道を走ったり止まったりしている。そしてある日突然、車内にもう一人乗客が増えた。その乗客は横から指示し、この車をどう運転すればいいか教えてくれる。またどのルートで目的地まで行けるかも教えてくれる。あるいは疲れてしまった時、その乗客が運転席に座り、自ら運転しながら特技を披露し、「こんな風にもできるんだ」と驚かせたりする。また、その180キロ仕様の車を250キロで走らせて「こんなことできるなんて信じられない」と思わせたりする。この車が性能以上の機能を発揮するなんてどういうことなのか、自分にもそのスキルがあればいいと思い描く。そしてその乗客もまた修行方法について導いてくれる。この時さらに数名の乗客が加わる。そして疲れている時には再び運転手交代となり、それぞれ得意技を披露し合う。そのため、あなたはその中に夢中になってしまい、その特技習得に全神経を注ぎ込むあまり、本来運転している自分自身という存在を忘れてしまう。またさらに言えば、その乗客たちから「私は東へ行きたい」と言われたり、「私は西へ行きたい」と言われたりすると、本来北へ進むべきところなのに、その横から「西へ曲げろ」と言われたりして混乱してしまう。他の乗客たちもそれぞれ異なる方向へ向いており、ぐるぐる回されてしまい、自分自身の進む方向(北)さえ忘れてしまう。
心は身体主宰であり、心こそ体であり、身体こそ用(役割)である。体と用(役割)は一如(同じ存在)であり、霊(魂)はその内側に住んで主宰となる。霊こそ運転手なのだ。この身体を自在に操縦し、その性能や条件、本質について理解している。しかし霊もまた、この身体機能のおおよそ60%しか発揮できていない状態なのであり、更なる40%もの潜在能力はいまだ発揮されていないのである。それならば霊はいったい何故自ら身体を強いる必要などあろうか?必要な時には自然と発揮されるのであり、それゆえ無理矢理強いる必要など全くないのである。このような霊による身体への圧力現象とは法界(宇宙)の生物たちによって依存され、一時的な修行として借用された体なのである。そのため彼らには体という道具として利用され、自身へのメッセージや奇跡的現象によって魅了され惑わされ続けている。そして彼らへの駆動力として利用され続けている。このような「霊による身体への圧力」は能力外な事柄へ挑戦させようとすることであり、自身では負担できない領域へ踏み込ませようとすることである。そして生活や法界から送信される情報によって干渉された場合には内外から相互作用し合い、この現象全般が「霊による身体への圧力」と呼ばれるのである。
by-劉鴻銘老師