霊識の初覚醒(19)
修行。それは力と自力。個人的な経験を共有します。7年前、私は修行について全くの無知でした。ある因縁で自発功に触れました。
1ヶ月以上練習した後、私は狂気に陥りました。今ではその情報がどこから来たのか思い出せません。ただ声のようなものが聞こえた気がします。1ヶ月間の閉じ込め。その間、私は本当にほとんど外出しませんでした。子供の送迎や買い物、無形の師から指示された用事以外は家にいました。毎日、朝課、昼課、時には夜課もありました。主要な神々「仏」「菩薩」だけでなく、虚空を通過する神々もいました。それぞれの神仏菩薩が一つずつ教えてくれました。その過程は驚きと神秘に満ちており、それに引き寄せられました。当時は恐怖もなく少し狂っていました。ただ身体は意識によって制御されているわけではありませんでした。他に何か力が主導しているようでした。例えば授業中や授業後には菩薩を迎えるために跪かなければなりませんでした。その膝はまるで私のものではないかのように感じられ、直接床にぶつかりました。一日に少なくとも7~8回、多い時には17~18回もありました。不思議なことに膝には一切あざがありませんでした。一度、自分の信心を強化するためなのか、指示されて年長者を調整する手助けをしました。なんと私はそれができたのです。(申し訳ありませんが詳細には触れられません)あっという間に1ヶ月が経ちました。神仏菩薩は帰ると言いました。「もし縁があれば再び会える」と。ただ「あなた自身を大切にしてください」とだけ言われました。その時、心境には切ない感情が湧き上がりました。その後意識による主導へ戻りました。その時何かを失ったような気持ちになりました。「恐怖」「不安」「疑念」「彷徨」「無力感」「迷い」が同時に生じました。「パニック」とは何でしょう?それを経験した者だけが知っています。不安な心が芽生えました。「私は狂っている」と思いました。「どうして自分を1ヶ月も閉じ込めていたのだろう?」意識認識にはないことをしていた。しかしどうやら冥冥中に何か力によって引き寄せられていたようです。一部知っている師兄や師姐たちが訪ねてきて、未見の事物を示しました。それによって信心が生まれ、心中の恐怖は徐々に解消されていきました。
狂気になる前半月間、私は20年以上隠していた『壇経』と『金剛経』の合本を探し出して読み始めました。しかし2回目すら読み終えることはできませんでした。そして人も狂気じみていました。その後答えを求めるため、お寺から善書処で禅家や仏教経典を持ち帰りました。経典を読むことや念じることが生活の一部となりました。一冊の経典でも訳文にはおそらく一文しかありません。それでもその当時の心境と契約しました。このように、一文ずつ積み重ねながら心は徐々に安定していきます。それほど不安ではなくなり、徐々に輪郭が見えてきました。そして道教や儒教の経典にも手を伸ばしました。念じることはさらに素晴らしい体験です。当初念じた現象として「急ぐ」という2文字しかありませんでした。取り戻した経典は約50冊ほどあり、その中には仏教と道教両方があります。当時、一心不乱で各経典を一度ずつ読もうと思っていました。しかし読んでいる際、とても速く急ぎすぎていて全く法則性などありませんでした。そして数日後、それによって息切れしそうになりました。「速さ」さえも追いつけませんでした。不思議にも自然とどんどん遅くなり、「普門品」を読む際、一字一音につき約1時間ほどかかります。「金剛経」や「薬師経」は約3時間ほどです。それは非常に自然な遅さであり、意図的ではありません。当初念じ始めた頃には脳裏によく過去の状況が浮かび上がっていました。しかし今ではおそらく一部経典を読み終えても、一つの考えすら浮かばない状態です。この念誦する過程で身体内部には何か力があります。それによって口から自然と出ています。また声も丹田から出ています。念誦する際、その声は時折雷鳴如く響いたり、菩薩がお説法される荘厳な音声だったり、生徒として敬意ある音声だったりします。それはいずれも自分自身から発せられるものです。そして意識的制御ではなく、自身内なる深淵なる力から来ています。このようだからこそ読経によって因果関係について理解でき、自信生まれて安心できます。また念誦する過程で私の日常的な雑多な思考も徐々に静まり、不必要な妄想も減少しています。
最近誰かから修行について尋ねられました。しかし各人それぞれ客観的環境や実際状況、その因縁など異なるため、一律適用できる方法など存在しません。それより自己反省し、自身の欠点や弱点を見出すべきです。そしてそれについて理解し、自分自身内なる深淵なる力への信頼感を持つべきです。その対処法こそ自然と現れるべきものなのです。また盲目的になり法求め東奔西走するべきではありません。このため7年間の経験を書面化しました。この霊識初覚醒者または縁ある人々との共有となれば幸いです。他者への助けとなれば嬉しい限りです。また自分自身こそ道場であり、それ能動的になれば家庭こそ蘭若(修行場)となります。そして完全なる家庭となります。それこそ修行なのではないでしょうか。
by-劉鴻銘老師