修行の道
修行の道は、学びを通じて自分自身をより一層高め、成長させることであり、修行には正しい法門に従う必要がある。そうでなければ、盲目的に修行を続けて無駄な道を歩むことになる。真に修行し実践する者は、日々新たに自らを求め続け、
また日々新たに、自分自身を絶えず要求し、道を学び勤勉に修行し、本当に道を修めることで、人生はより円満になり、一人前の幸せな修行者となる。
なぜ道を学び、修める必要があるのか?
古人は言った:学んで初めて不足を知り、また「学んで使う時になってこそ少ないことを恨む」とも言われている。普段から仙仏の経典や教義について心を込めて研究することで、経典から啓発され智慧が生まれ、善悪や是非を明確に判断できるようになる。
さらに心性の転換方法も理解できるようになる。道を学ぶことは遅いことは恐れないが、退く心が芽生えることだけは恐れるべきであり、これはすべての修行者が直面する可能性のある過程である。そして修行とは小さな努力の積み重ねであり、「一日修れば一日の功、一日不修れば一日の空」と俗語にもある。
普段から二六時中、自ら反省し欲望を捨て心を清らかに保つことでこそ、生命はその価値観を示し、一人前の自由自在な修道人となる。
どうやって道を学び、修めるか:
「学道」の部分:
1. 道書や経典、教義から善良な種子を育む:普段から経典や教理に触れることで潜在意識に善良な種子が深く植え付けられ、不運が訪れたときには教理や経典によってナビゲーションされ、自分自身へのリマインダー能力が生まれ、大きな偏差なく行動できるようになる。
2. 仏教の規則礼儀から戒律遵守の力を求める:仏教の規則礼儀は散漫さや混乱した心、および偏った邪念を変えることができ、生活に規律と方向性を与える。礼とは理であり、節とは節度であり喜怒哀楽愛悪欲などすべて中庸で表現される。どんな場所でも異なる対象でも適切に表現できる。
3. 道場進修班への参加によって渡人能力を養う:進修班は人材育成の過程であり、一生懸命かつ忍耐強く参加して学ぶことで障害なく弁才(話術)も育まれ、本当に渡人(他者への助け)として優れた存在になり得る。また道場内では全方位的な運営能力も身につけられる。
4. 学びと参加から福徳と智慧が増す:道場に必要とされれば功徳と徳立ち上げ機会も掴みながら常時手伝い活動へ参加することで、大衆への奉仕に喜び感じられる人、
必ず広い心胸と良好な人間関係が築かれ、自ずと慈悲・喜捨など自性(本来持つ性質)が表れる。智慧も不断なる奉仕によって現れ、その同時にも無形の福報も蓄積される。
「修道」の部分:
1. 自分自身の言動振舞いを端正する-常に微笑みながら良い言葉遣いと礼儀正しさ保持しつつ言動には道気(精神)が表れるよう努め良好な対応力・進退術(状況判断力)養う。本当の文質彬彬たる修道人として顕現する。
2. 悪習慣や気性改善-反省によって真心持ち続け、自性から離れず貪・瞋・癡・慢・疑など習慣的傾向排除する。この時良心が主導権握り悪習慣や気性は容易く脱落していく。
3. 功績と徳立ち上げ-聖伝によって自己研鑽し、人間関係によって命運形成される。聖人曰く:「至徳無き者には至道凝り難し」、古代より立徳・立功・立言こそ人生三不朽なる聖業と言われ、
この中で多くの人々へ渡す悲願達成すると同時にも、多くへ渡す中で自己研鑽も完成させ、この内聖外王という極致表現でもある。
Ps.「内聖外王」は『荘子』天下篇より出た語句だが最も儒家思想象徴している。内聖とは内側から聖賢なる徳成就;外王とは外側から仁政王道推進すること。
内聖之学は聖賢成就目指すもの。儒家では誰でも聖賢になれる可能性持ち、それぞれ倫理実践通じ自己人格形成して聖人的境地へ進むこと可能だと考えている。
4. 動じない真剣なる技術鍛錬-どんな素晴らしい体験や理論あろうともただ口先だけではいつか現実によって打ち負かされてしまう;
今現在多くの修道人は家庭内で静かな生活送りながら、人事との接触通じ汚泥にも染まらぬ真剣なる技術磨いている。苦悩する理由とは手放せないため、
割り切れず自由自在になれないのである。しかし耐え忍ぶならば必ず定力得られて外部環境影響受けなくなる。本当に八風にも動じない紫金蓮座状態達成できるのである。
修行目的は単なる環境変化また運命転換ためだけではなく、「教学相長」同時進行でき、生き物たち煩悩苦痛解放助け合うためでもある。絶対的には自分自身期して戦戦兢兢、
薄氷踏む思い出持ちながら自己欺瞞せず天地間恥じぬよう努め、その上今この瞬間生き抜き今この思考掴み因縁順応逆境受容し、本当に君子無入而不自得状態達成するべきだ。
無入而不自得:どんな状況下でも自適(快適)さ失わない意義含む。
bi-鳳凰山脈 慈凰宮
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