欲望の危険
温水でカエルを煮る
「温水でカエルを煮る」という言葉は、量の変化が質の変化に至る原理を示しており、徐々に変化することへの適応と習慣によって警戒心を失い、災難を招くことを説明しています。安逸な環境では、人は周囲の環境に惑わされやすく、最終的には消沈し、放縦し、堕落する結果になります。このプロセスは少しずつ進行するため、人は気づかないうちに全体的な変化を遂げてしまい、目覚めた時には手遅れです。
生きとし生けるものは欲望によってこの世界に来て、欲望によって生まれ、欲望によって生き、そして欲望によって死んでいきます。だから、この世界は「欲界」と呼ばれています。
この世の中では、すべての煩悩や苦痛、傷害や複雑な状況は異なる欲望から生じた結果です。したがって、私たちは欲望がどこから生じるのか?それはどのようにして生まれるのか?を観察し、その後さらに欲望について理解を深める必要があります。欲望の根源を見つけ出し、それを徹底的に変えることで初めて幸福と調和を得られるのです。
まず最初に、欲望の源泉を認識する必要があります。欲望は無明と我執から来ています。無明には、生まれながらの無明と遍計無明があります。生きとし生けるものは世界の真実を認識せず対立心が形成されることが生まれながらの無明であり、それは今世だけでなく、生きとし生けるものが持つものであり、それこそがすべての輪廻の根源です。「我執」とは、自分以外の視点で物事を考えることが少なく、他者について考えることもなく、自分だけに利益になるような行動しか取らないということです。他者を助ける場合でも、それは選択的かつ条件付きな奉仕です。実際、このような表面的な利益もまた我執から離れてはいません。それは、生きとし生けるものが無始以来持ち続けている習慣なのです。我執に慣れてしまうと、自ずと苦痛から遠ざかり快楽を追求する考え方が芽生えます。この状態が「欲望」と呼ばれます。「我執」には人我執と法我執があります。すべての存在は「私」が存在すると信じ、自分中心で物事を見る固執が「人我執」であり、「これは私の車」「これは私の家」など自分基準で認識することが「法我執」です。これらはいずれも生まれながらの無明に属します。
もう一つ欲望が発生する源泉として「遍計無明」があります。我々は誕生後、親や教師、およびさまざまな文化や宗教から教育され、その社会や環境から影響され形成されたより深い無明、それが遍計無明です。それは、生きとし生けるものが転生した後に徐々に形成されていくものであり、この遍計無明が増加するにつれて、生まれながらの無明も深まります。この二つの力がお互いに作用し合う中で、徐々に欲望が形成されます。
次に智慧によって欲望について理解していきます。仏教的観点から見ると:欲望には善・悪・無記という三種類があります。欲望とは限りないエネルギーであり、そのエネルギーには正エネルギーと負エネルギーがあります。正エネルギー動機には二種類あります。一つ目は何事にも自他利益を考慮する出発点としているものです。そしてもう一つは全く世界人類およびすべてのお釈迦様たちへの貢献として苦痛から遠ざかり解放されるためだけに尽力する動機、このような欲求こそ善なるものであり正エネルギーなのです。このような善なる欲求こそ社会発展への原動力であり、人類進歩への源泉となります。
他者の苦痛や困難さ全く感じ取れず関心も持たず責任感も捨て去り、「自己」の名声や利益のみ追求している場合、その中には貪心や怒心という悪なる欲求があります。それこそ貪心延長線上で満足感など永遠になく、一度でもそのような状態になれば、自身も温水でカエル煮込み状態になり、その快楽ゆえ致命的な緩みとなり、不知不覚間に危険地帯へ入って抜け出せなくなるでしょう。その限りない貪婪さえも無明我執によって操られており、その境界線などありません。それこそ罌粟(ケシ)でも誤食したかと思わせるほど膨張します。このような悪なる願いほど膨張すれば恐怖感や苦痛感もより深まり幸福感や方向性まで失われます。
また、「無記」の欲求というものがあります。それとは善でも悪でもない単純な願い例えば喉渇いて水飲みたいとか眠たい時寝たいと思うような思考などです。
欲求とは外部環境との因果関係によって生成されます。それ自体心本来姿ではなく、一時的についた埃とも言えます。しかしながら、全て悪事ではありません。その鍵となる部分とは正しく水路掘削して水流引く方法を理解することなのです。賢者とはそのような誘惑には従わずむしろそれら操縦して世界へ奉仕します。愛因斯坦曰く:「人間価値とは彼自身何を成したかを見るべきだろう。」自己中心的行為とは索取ですが他者利益への索取こそ貢献と言います。
欲求とは形ない力、それはいわば一杯のお水だと言えます。その中へ何種調味料(酸味・甘味・苦味・辛味・塩味)加えればその通りになります。その動機次第結果決定します。ただ智慧によって善悪見極めできればどう変えて行けば良いかわかります。そして唯一その方法として日常生活内慈悲心訓練続け、新しい願いや思考芽吹いた瞬間それについて分析しそれ善なのか悪なのか判断します。そして悪なら排除して善なら護持します。「菩薩行」にある如是菩薩所述方法通じ煩悩習気対治できます:「煩悩串習難対治,执持正知正念剑,贪等烦恼初生成时,立即铲除佛子行。」
煩悩となった願い事自由奪われ、高過ぎた願い捨て去れば実際幸せ簡単なのです。
by-台湾 無畏如来芽大円満禅修センター