修行の道~2
道を学ぶのは容易だが、真を修めるのは難しい。人は盲目的に修行したり、無駄に煉ったりしてはいけない。明師の指導が必要であり、道を探求し人生の本質を考える者は、往々にして明師の指導が欠けているために混乱し、真理に達することができない。
したがって、修行者は多く存在するが、成道者は稀有である。現代社会は古人のように単純な思考ではなく、現代人も修行を望んでも、名声や利益という物質的な社会に迷わされやすい。貪りや怒り、愚かさや慢心、不安などが本心を惑わせ、一心不乱に道を求めることができず、とても残念である。今日、多くの同修たちが道を求めることは言わば鉄製の靴で探し回るようなものであり、全く労力をかけずして得られるものである。
古代の人々は道を求めるためには千里も明師を求め、万里も口訣を求めなければならなかった。皆さんは今この時、この世に明師がいる時期に乗じて、一生懸命に精進し実践するべきであり、大切な時間を遊びや享楽に浪費してはいけない。
修行には功徳が欠かせない。どんな宗教でも功徳が必要であり、外面的な功と内面的な果実を持つことで私たちの源へと戻ることができる。有力や権力、地位などは確かに素晴らしいものだが、その時期になると、それらは全く無価値になってしまう。
人生とはまさしく劇場のようなものであり、結局ただ空虚な一幕である。生まれて持ってきたものもなく、死ぬときにも持っていくものはない。ただ私たちの霊性の昇華と霊格の向上、および今生で作った功徳だけが持ち帰れるものである。
どうすれば功徳を積むことができるか?
三施(さんし)について知っておくべきだ!三施とは財施(ざいし)、法施(ほうし)、無畏施(むいし)である。
財施:金額には関係なく、大切なのは誠心誠意から発心することであり、自分のできる範囲内で行うことである。たとえ一円でも、その功徳は須弥山(すみざん)のようになる。誠実な心から自分のお金を寄付して他者を助け、自分の心力と財力を捧げることこそ天から求められていることである。
お金持ちはお金を出し、有力者は力を出し、有志者は心意気を出すべきだ。当然ながら捨てれば得られるという理屈も理解すべきだ。しかし、自分勝手な気持ちや何か得たいという気持ちではなく、それでは功徳とは言えない。
法施:真摯な善念によって、人々への祈りや経文の朗読、お祈りなど全て法施となる。さらに良い方法として、自分が学んだ理論や法理を他者へ伝え、人々に向上心を起こさせたり悪事から善事へ転換させたり、自覚させたりすることこそ最良なる「法雨布施」である。
無畏施:大公無私・無我なる心志、小我(しょうご)を犠牲にして大我(たいご)完成への志向。他人が為さぬこと自ら為し、他人が敢えて行わぬこと自ら敢えて為す。ただ大衆から苦痛から解放され楽しみへ導くためならば、それこそ無畏施と言える。
修道することは容易ではなく、大変険しいことである。ただ一心不乱であれば必ず乗り越えられる。受験者には試練なく試練には受験者なし、自身の心動揺すると魔障(ましょう)が侵入して思考が乱れ清浄なる道行きを妨げる。そのため四つ門課題(よつもんかだい)もしっかり取り組む必要があります。過去には悔い改め、多く功徳積み、自身の罪業消滅させ静かな修行によって自他共渡(じたともわた)す日々、このように愛情・善意・正念など育む。そして魔障自然と排除され、本来の自己像へ戻れるのである。修行者には磨きを受け入れ先苦後甘という過程があります。その辛苦によって喜び収穫があります。しかし多くの場合、不安定になり耐え切れず、その結果として毛羽立つようになったり角になる場合があります。「師匠引いて門入れども,修行在個人」迷う時には師匠によって渡され悟った時には自ら渡ります。
日常生活そのものこそ道なのです。安楽につまり本性喪失してはいけません。一生難得、中土難生(三土)、三期難逢(さんき)、明師難求。この四つ難易度今具備されていますので、この貴重なる機会失わぬようお願いいたします。
したがって学び続けている者として必要なのは功徳積み立て内外兼ね備え性命双修福慧双修と言われます。それ以外にも外的功績と内的果実とも言います。「古人曰く:有功無果按無足。有果無功自不全」と言っています。
また「功圓果満脱殻飛昇」と言われています。「功円満」でも「果未満」の場合、更なる努力必要です。また「果円満」でも「功未円」の場合にも再度取り組む必要があります。「必ず三千功八百果」を積まねばならない。それこそ「功圓果満」と称されます。
所謂三千功八百果とは因果関係断絶への実践です。「三千」は外的行動による善業、「八百」は内面的成長です。この間単なる記録だけではなく,実践中にもその成果評価必要です。そして前回まで達成した成果補填後続成果,後続成果補填前回まで達成した成果,累積して三千円満達成します。
八百果とは内面性向上の日常習慣改善及び凝縮化,後天的汚染から先天的真善美境界への復帰です。
修道とは内面德(ないめんとく)の向上,仮象通じ真理探究,濁流より清流への回帰,悪習改正及び気質変化,本来性格復元です。それこそ六祖壇経所述:「菩提自性,本来清浄,但用本心直了成仏」です。
by-鳳凰山脈 慈凰宮
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