念仏とは心を観ることであり、清浄な心こそが浄土である。
誰かが言うには、末法の時代においては念仏を指針とし、浄土を帰依の場所とすることが最も確実である。確かにその通りだが、念仏とは何か、浄土とはどこにあるのかを考察しなければならない。もし念仏を間違えたり、浄土を誤解したりすれば、一生懸命に努力しても必ずしも思い通りにはならないだろう。だからこそ、まずは念仏とは何か、浄土とは何かを見極めてみましょう。
念仏とは何でしょうか?念仏は心を観ることであり、心を観ることこそが真の念仏です。心を観ずに念仏について語ることはできません。なぜなら、心こそが仏だからです。もしあなたが念仏を唱えながら心を見ることなく、それではどうして念仏と言えるのでしょうか?祖師たちが「阿弥陀佛」という名号を唱えるように教えた目的は何でしょう?それは瓜のつるを引き上げて瓜を見るためです。「阿弥陀佛」という名号は瓜のつるに例えられ、心は一つの瓜です。つるを引き上げさせる目的は瓜を見るためです。「阿弥陀佛」を唱えるということは、自分の心を見るためなのです。「阿弥陀佛」という思いによって心を見ること、それこそが念仏の要点であり、「阿弥陀佛」の名号の意味なのです。それが真の念仏です。このようでなければ、念仏とは関係ありません。もし念仏号が心を見ることと関わらないのであれば、小学生や中学生、大学生さらには一般人の日常的な朗読と何ら変わりありません。「阿弥陀佛」の四文字自体には何の意味もありません。それ唯一の意味はあなた自身の心に引き戻すためなのです。もしそれがあなた自身の心に引き戻すことができれば、それは「阿弥陀佛」と呼ばれます;もしそれができず、あなた自身の心に引き戻さないのであれば、「阿弥陀」は「阿弥陀」と呼ばれますが、「佛」とは呼ばれません。
祖師たちは言います:念仏には四種類があります。それは持名念仏、観想念仏、観相念仏、実相念仏ですが、どんな種類の念仏でも本質的には心を見るための口実であり、その入り口であり、その目的はいずれもあなた自身の心へ帰すことなのです。ただし、その道筋は異なります。名から心への道筋や相から心への道筋や分別から心への道筋などがあります。また性境への認識から心への道筋もあります。どんな経路でも忘れてはいけないこと、それは回帰すること、自分自身へ帰ることであり——つまり観じることです。自分自身へ回帰し、自分自身へ帰り、自分自身を見ることができる者、それこそ真なる念仏と言います。すべて佛という概念に関わっているものには必ずやその背後にある「心」が関連しています。それと無関係であれば、それは決して佛ではありません。なぜなら、「心」即ち「佛」であり、「心」に関与しないのであれば、「佛」にどうやって関与するのでしょうか?したがって、「阿弥陀佛」の名号でも良いし、観想でも良いし、観相でも良いし実相でも良いですが、その目的はいずれも「心」を見るためであり、その過程では必ず「心」に近づき、照らし合い、大切にする必要があります。このようでなければ持名念仏とも呼ばれず、観想念仏とも呼ばれず、観相念仏とも呼ばれず実相念仏とも呼ばれるものではありません。ただ単に声を上げているだけであり、不必要な妄想や幻想世界へ入っているだけであり、多くの場合学問研究になっています。
要するに、自分自身を見ることなくして、本当の意味で「南無阿弥陀佛」を称えているわけではありません。その表面的行為として修行しているよう見えていても同様です。「南無阿弥陀佛」は決して表面的なものではなく、一方ではただ単純に称えている人々もいます。一方では本当に「南無阿弥陀佛」を称えている人々もいます。同じように全て「南無阿弥陀佛」を称えている者たち全員が同じく称えているわけではなく、本当にその名号によって自分自身を見る者のみが本当として称されます。同様に全て観想している者たち全員が観想として称されるわけでもなく、一方全て観相している者たち全員にも同様、一切実相について気づいている者たちにも同様です。本当にこれら活動によって自分自身を見る者のみ、本当として称されます。本当に自分自身と関与せざる者には、自身との関与など存在しません;また自ら見る事なくして、本当なる南無阿彌陀佛など存在しません。
さて、「南無阿彌陀佛」が即ち自己認識ならば、その結果として達成され得る美しい境地——浄土とは一体何でしょう?もちろんそれもまた自己認識について言及しています。「浄土」とはいわゆる清浄なる自己認識なのです。一体清浄なる自己認識とは何でしょう?明瞭さと清潔さ、この二つこそ清浄なる自己認識なのです。この明瞭さと清潔さこそ真なる浄土なのです。一体明瞭なる自己認識とは何でしょう?内外境界すべてについて明瞭且つ理解できている状態、この内外境界すべてについて知覚され理解され得ている状態、それこそ明瞭なる自己認識なのです;一体清潔なる自己認識とは何でしょう?一切概念にも染まらず、一切塵労にも染まらず、一切物語にも染まらぬ状態、それこそ清潔なる自己認識なのです。この状態というもの修行によって得られるものでもなく、不修行によって得られるものでもありません。また子供特有な状態とも異なる部分があります。この状態とは一体なんなのでしょうか?それこそ諸々如来(ぶつ)の意志そのものなのです。本来存在する性質ですが、不修行だと存在せぬようになります。しかし修行した場合現れるだけであって、新しく造り出されたものではありません。この明瞭且つ清潔なる自己認識こそ常寂光浄土(じょうじゃっこうじょうど)であり、多く如来(ぶつ)が住む場所となります。
諸如来(ぶつ)の意志と子供特有な意志との違いですが,もし諸如来(ぶつ)の意志と子供特有な意志完全一致するとした場合,世間中すべて子供生まれて皆如来(ぶつ)になる,そうすると如来(ぶつ)は修行なしになり,成就なしになり,世間中そんな事例など存在しません.もし子供即ち如来(ぶつ)となった場合、生まれて即ち如来(ぶつ)となった後,大きく成長するにつれてどんどん遠ざかり,成長するにつれてより一層如来(ぶつ)から離れる場合,そうすると諸如来(ぶつ)が退転した事例となります.世間中退転した如来(ぶつ)は存在しません.したがって,子供と諸如来(ぶつ)をごちゃ混ぜになさらぬようお願い申し上げます.また子供特有な意志と諸如来(ぶつ)の意志をごちゃ混ぜになさらぬようお願い申し上げます.誰か退転して赤ちゃんになる事例をご覧になった場合,自身天真爛漫さゆえ赤ちゃん的振舞い=如来(ブッダ)的振舞いと思う事勿れ,此乃妄想也,此乃誤見也,是非この考え方をご遠慮ください。如來(ブッダ)になるためには修行必要不可欠,不修行不足以成就,如同地下埋め込まれていた瑠璃珠宝(ルリジュエリー)の場合,掘り出さねば瑠璃珠宝(ルリジュエリー)にならない,同様掘り出した後表面泥汚れ草木取り除かなければ瑠璃珠宝(ルリジュエリー)にならない.泥付き瑠璃珠宝(ルリジュエリー)と綺麗瑠璃珠宝(ルリジュエリー)との二法異法,同一法則ではありません。その理由として泥付き瑠璃珠宝(ルリジュエリー)=綺麗瑠璃珠宝(ルリジュエリー),同じ用途使用可能という訳ではありません.明白ながら泥付き瑠璃珠宝(ルリジュエリー)光照四方映現万物出来ませんのでございます.よって泥付き瑠璃珠宝(ルリジュエリー)及び綺麗瑠璃珠宝(ルリジュエリー)同一法則ではございません故,小児的天真爛漫さ=諸如來的天真爛漫さ等しく見做さぬようお願い申し上げます。また多年修行された諸如來(ぶっだ)=未だ修行された赤ちゃん等しく見做さぬようお願い申し上げます。
悟道後菩薩達,不修而修,不証而証,全く不修不証という訳ではありません。不完全不修不証だった場合,天真爛漫且未だ修行された幼児との違いなど存じません.大菩薩達不修而修という訳ですが,不修作為為了彼等発見自性妙明本性,只是安住この妙明本性,即不再採用対治方法,不再採用幻影制幻影方法,而是安守本真,以最小限度力最小限度作業最大効率的手段進めています。不再克服消滅除去等以前手段使用しています。同様,不証而証亦然。不証という訳ですが,有可証之物存在します。ただその可証物件あなた本来自有之物故不可得,即非無得,有得之物即是那本来自有之妙明真理及其照耀下的一真法界。如果本当に三世诸菩萨所求所作皆落入虚妄,那么果然釈迦牟尼及其教義伝承価値など残存致しますか?従いまして誤解せぬようお願い申し上げます,如來・教義・信条等々。
by-台湾無畏如来芽大円満禅修中心