霊識の初覚(13)
仏教では、「十界は唯心にあり、万法は識による」と言います。仏は言いました:十法界は私の一心が創り出したものであり、すべての事物は識によって現れます。
世間の万法は心識によって変現されます。仏がこの世に現れるのは、一つの大事を説くためです。それは、いかにしてその心を降伏させるかということです。識は本心であり、本性を見ます。そして、衆生の本性にはすでに般若の智慧が備わっており、煩悩の根を断つことができます。八万四千の法門は八万四千の煩悩に対治します。これは世間の珍奇な宝物ではなく、自分自身が持っている宝藏です。ただし、それを発掘していないだけなのです。
初覚者が最も克服し難いものは、虚妄または虚幻な心です。初覚期には感応能力も啓発されるため、法界との情報連結が生じます。しかし、その一方で法界について無知で理解不足なため、自分自身の認知や得た情報と法界から伝えられる情報との間で意識的に区別します。それが神か鬼か、仏か魔かというように。したがって、無から有を生じさせる幻想的な現象が、自身の意識感受と共に絶えず変化します。その幻妄から来る意識的な考え方によって法界の存在現象を解釈し、自ら疑念や不安を抱くことになります。自分が神なのか陰なのか分からず、神仏降臨なのか陰魔侵入なのかと迷うことになります。法界との情報連結において、自身の感応による好悪で判断することになり、智慧によって法界衆生を見極めることができません。もし快適で平和温かな感覚なら、それを神仏降臨だと思い込みます。しかし、不快や嫌悪感を感じれば、恐怖心が湧き上がります。そして魔や鬼による障害ではないかと疑うようになります。このような様々な虚妄な想像や無から有を生じさせる虚幻不実な思考が浮上し、自身の精神には重い無形圧力が背負わされます。それは生活本質から離れた状態です。周囲にいる人々や事物こそ今直面し受け入れるべきものであり、虚構的な幻想世界ではありません。
行者が常に法界衆生から干渉される理由は、自ら生じた心動念と法界との契機があります。日常的な行動や善悪業を造作することで、無明一動した虚妄想像の意念と共鳴し、それによって自然と法界と相互連結します。善なるものとは自ら善なる法界との連結であり、悪なるものとは自ら悪なる法界との連結です。法界衆生には本来神通があります。ただし煩悩未断なので善悪への執着があります。「善」を捨てず「悪」を断ち切れません。また行者自身も修行過程で両極端になる場合があります。行為として善悪への執着を捨てず、「是非」を見聞きすることで煩躁や怒りなど自心から起こります。そして虚妄想像する意念も絶え間なく続きます。この身体には無明として常時法界と繋がっています。そのため法界衆生には迷わせたり干渉したりする機会があります。如果自分自身の心覚醒しない限り、この繋がりは続きます。そして虚幻境地に身を置くことになり、その結果として意識的にも無為となります。そのため法律界から干渉され続ければ永遠に安息の日々は訪れません。
煩悩は無明から起こります。そして取捨選択には愛憎があります。すべての事柄は自心から出ています。それらはいずれも空虚で虚妄な想像です。
一心によって万法を生じ、一切万法も最終的には一心へ帰結します。一時迷った時には万法散乱し、一度覚醒すると再び一心となります。
by-劉鴻銘老師