霊識初醒(24)
天地の万物はそれぞれ感覚を持っている。美しさ、醜さ、善悪、良し悪しはすべて心によって区別される。心に従えば美であり善であり良い。
心に逆らえば醜であり悪であり悪い。時は意に従って動くもので、一成不変ではない。時は縁によって変化し、善悪や良し悪しが交互に変わる。それらはすべて心の取捨選択によるもので、真の意味ではない。花を賞でることは草を貶めることであり、それを除くことが楽しみとなる。病が身に染みたときには薬草を用いる。時には草が貴重で花が軽んじられることもある。それを除いた後には快感が得られる。花を賞でるときには花は善となり、薬として草が使われれば花は悪となる。善悪の念は心の取捨選択によってその時々で異なる。
認知上の良し悪しは習慣として形成されるものである。意識は常に認知によって束縛されているため、視野が狭まり広がりを欠く。そのため、自分自身の心も認知上の善悪や是非によって制約されてしまう。自分自身が認知する善悪や是非を持ってすべての人事物に対峙することになる。善なる者には喜び、悪なる者には嫌悪感を抱く。その取捨選択の念は自分自身の心に波立ち、不安や煩悩も伴うものだ。古代の聖賢たちは心性を修養していたが、それはこの妄想や執着から生じる区別された心を抑えるためだった。
四端の心と四つの不正な心はいずれも自らの心から発するものである。もし自分自身の心の働きを理解できなければ、妄想や区別への執着が絶え間なく続いてしまう。そして四つの不正な心(怒り、恐怖、喜び、憂い)が発生することになる。その結果、生活は自然と煩悩や苦悶に満ち溢れることになるだろう。もし意識によって妄想や区別への執着を断とうとするならば、意識と認知は同時に形成されており、それは今生で得た学びや経験から育まれているため、その根深さゆえ簡単には揺らぐことがない。しかし妄想や区別への執着を断ちたいのであれば、人々本来持つ般若智(智慧)を啓発するしかない。この明確な徳(明徳)や菩提自性(仏性)について理解できなければ、一切法(すべての教え)を実践しても結局意識認知内で翻弄され続けるだけだ。ただ意識から離れた時のみ真実の心を見ることができる。そして四端の心(慈悲・謙遜・是非・羞恥)は自然に発生するものなのだ。
by-劉鴻銘先生