霊識の初覚醒(8)
霊的な顕現。初覚醒から覚醒までの道のり。順風満帆な人もいれば、福報や善縁に恵まれ、短期間で覚醒の道に至る人もいます。
しかし、善根や福報を持たない人は、道が険しく迷い続け、10年20年経っても覚醒の道を見つけられないことがあります。なぜそうなるのでしょうか。
自発的に霊を開く者。宗教的信仰がない場合、多くは自分の心身に問題があると考え、医療システムで治療を求めます。
宗教的信仰がある場合は、宗教に助けを求めますが、その求めるものが人間でない場合、10年20年経っても同じ場所でぐるぐる回っている人は大勢います。
その中を歩いたことがなく、その味わいを知らなければ、他人をどのように導くことができるでしょうか。「恐れ」「嫌悪」「恨み」「疑念」「迷い」「無力感」といった感情から抜け出す手助けはできません。
彼らの心身を安定させ、一歩一歩覚醒への道を歩むことができるようにするには、この経験が必要です。ただ経典や教義だけで導いても得られる効果には限界があります。
初覚醒者はしばしば忍耐力が限られているため、あちこちから情報を集め、多様で複雑な情報を吸収します。しかし、自信は深まらず、途中で退縮してしまうこともしばしばです。その結果、自分自身がさらに混乱し、心神も不安定になります。他者によって誤った道へ導かれることもあります。
人間性本質や倫理から逸脱し、虚幻で実体のない人生を追求するようになります。頭の中には神や鬼といった考えしか浮かばず、自分自身が混乱してしまいます。
日夜坐っていても安らぎなく、不安定な状態です。また、一部の人々は何か思うところがありながら他者に霊的な助けを求めます。その動機は偏っています。
ただ神通力や感応を得たいだけなのです。本当は自分自身を知りたいわけではなく、その力(霊界)を借りて特別な能力を得て私欲を満たそうとしています。
自己修行が不足している場合、自分自身の心を保つための定力も不足しており、外部からの神通力や幻想に耽溺すると、その制約に苦しむことになります。このような事例は多々あります。
誰でも本来身心霊があります。この「霊」は無始以来の本我です。それは内にも外にも存在せず、形も色も味もありません。それ自体は存在するものなのです。
霊は修行によって顕れるものではなく、本来自在なのです。食事や睡眠すべてそれ自体なのですが、本我(霊)を認識していないだけなのです。
もし自身の意識や心意識が長期間混乱した状態にあるなら、それによって主導権を握られることになるでしょう。
霊識が顕現する際には、心意識はそれを受け入れ、「認識」し、「調和」させ、それ存在することに気づかなければなりません。そして心こそが霊性への扉となります。
経典にはこうあります: 本心明らかならず。本性知らず法学ぶとも無益であると。如果心の作用について理解すれば、霊妙なる場所へ入るための道筋が見えてきます。
覚醒の日は遠くありません。また経典にはこうあります: 性を見ることで修行始まるとあり、覚醒した時こそ真に行修への道に立つ時です。そして習慣化された性格から解放されることこそ、この生涯最大の課題となります。この習慣化された性格から離れず変わらない限り、本質的には皆同じ存在なのです。
by-劉鴻銘老師