修行と心の修練についての浅い考察
気功の修練の過程では、自分自身の煩雑で落ち着かない凡心を絶えず抑え、最終的に自性を顕現させることが求められます。それでは、どのようにしてこの落ち着かない凡心を鎮めることができるのでしょうか?これが「心を修める」ことの鍵です。
私たち一人ひとりは、この物質的な世界に生きており、心は物に使われ、外から六欲に感応し、内には七情が重くのしかかります。この凡心を鎮めることは容易ではありません。「私」があることで、「私」に対する過度な執着が生まれます。気功を修練する者は常に自分の福徳を積み重ね、善縁を広げる必要があります。
天との縁を結ぶには自然の法則に従い、中で人との縁を結ぶには真心と誠意で調和した人間関係を育む必要があります。そして地との縁を結ぶには万事万物と調和して共存することです。こうして私たちは周囲の世界と良好な精神的ネットワークシステムを築くことができます。
もし私たちが常に自己修練し、自省し続けることができれば、「自我」に対する過度な執着から徐々に解放されていくでしょう。荀子は言います。「土を積むことで山となり、風雨が興る;水を積むことで淵となり、蛟龍が生まれる;善行を積むことで徳となり、神明自得し聖なる心備わる。」
そして「《観心法》」は効果的で信頼できる心の修練方法です。所謂「観心」とは、自分自身の凡心を手放し、この落ち着かない凡心について客観的に反省することであり、これは内観による自己反省的方法です。
私たちの凡心が動揺するとき、すぐに警戒し、その状況から飛び出す必要があります。他の視点から内面を見ることで、注意は外から内へと移り、凡心から真性へと向かいます。
この変換は実際には根本的な解決策であり、このプロセス自体が様々な妄想や煩悩を大きく削減します。宇宙全体や人生について、この「内にも入れつつ外にも出られる態度」を採用することで、私たちの気功修練は徐々に高い次元へと進んでいくでしょう。
人間の心に貪欲や怒り、無知、高慢や疑念という汚染があれば、仏教や道教の学びも純粋さや精進さには至れません。所謂修行とは、自分自身の中にある汚染をしっかり悔い改めて洗浄することです。常に自分自身に警戒し、不貪、不怒、不傲、不慢であれば、常に慈悲喜捨と思いやりで他者と接することができます。
心境が柔らかく謙虚であればあるほど、人との関わり方も柔和になります。修行とは常時反省し間違ったらすぐ悔い改めることであり、自分が間違っていると知っていても認めないなら、それこそ誤りです。それが習慣化すると、自ら道業精進への進捗を妨げてしまいます!
by-鳳凰山脈 慈凰宮
コメントを残す
コメントを投稿するにはログインしてください。