身体、心、霊の修行と悟りの法門
修行して悟ることは難しいとも言えるし、簡単だとも言えるが、それは全て修行者の悟性や執着する事柄の程度によって決まる。
現在、世界には八万四千もの法門と三千六百もの道門が存在することは皆知っている。数字はただの形容詞に過ぎないが、修行の道が非常に多様であることを証明している。しかし、修行の道だけでなく、私たち修行者自身の根器も千差万別である。自分がどんな根器を持っているか、またどのような修行法門が適しているかを知らずに無闇に修行を続けると、小学生が大学院の授業を受けたり、大学院生が小学校の教科書を読むような結果になってしまう。最終的には、その理論が難解だと感じたり、とても簡単だと思ったりすることになり、自分自身の貴重な修行時間を無駄にしてしまう。
自分自身の根器はどうやって知ることができるのでしょうか?まず最初に理解すべきは、宇宙が混沌としていた時代には、「気」だけしか存在せず、それ以外には何もなかったということです。「仏」と「仙」は「気」の隠喩であり、これは仏教の師たちが言う「人人本来都是佛」という言葉の真意です。その後、宇宙に現れた万物や万象は実際には異なる量の気体から構成されており、無形無象である気体こそ宇宙の実相であるため、それらを「真相」と呼びます。そして気によって組み合わされた万物や万象は「仮相」と呼ばれます。この理論によれば、私たちはこれら仮相という物質的実体から真相という宇宙間哲理を悟り出すことを「仮借して真を修める」といい、その過程全体を俗称して「修行」と呼びます。
霊体が初めてこの世俗に降り立つ時、それは気→質→形→体→単細胞→多細胞→細菌→昆虫→水生動物→爬虫類→哺乳類そして人類へと徐々に進化します。このため、多様な軀殻を借りて転生し続けており、その時間は140億年以上にも及びます。したがって宗教界では私たち一人一人の霊体が何度輪廻したかわからないと言われています。輪廻とは霊体が動植物という軀殻に宿る過程です。地球上には大気層(俗称太極気天)が存在するため、この空間内で万物と万霊は輪廻しています。もし霊体が修行によって道を悟り、この大気層や地心引力から解放されて宇宙へ戻ることができれば、それは「脱殻飛昇」、「頓悟成仏」、「明心見性」、「得道成仙」、「瑤池へ帰還」または「極楽往生」と呼ばれます。それらの名称はいずれも形容詞であり隠喩でもあります。
先ほど述べたように、「気」から人類まで至る霊体は、その濁気への染まり具合によって異なるためです。動植物という軀殻はあくまで表面的なものであり、万物間には霊体が異なる軀殻に宿りながら因果業障への報いを受け取っています。このため、霊体は異なる程度の濁気や障害によってその根器にも高低差があります。
したがって修行するためには、自分自身の根器がどこに位置しているかをまず知る必要があります。それによって正しい修行法門を見つけられるでしょう。自分自身のレベルを見つけ出すことは非常に簡単です。まず四つのレベルで説明します。ただ悪事だけを働くか完全に神々や鬼神など存在しないと思う人々は第四レベル、人類最低レベルです(もちろん中にはまだ時期尚早な例外もあります)。悪事も善事も両方する人々ですが鬼神について信じながらも深入りしない人々は第三レベルです。そして善事のみ堅持したり、自身認める神佛のみ拝む人々は第二レベルとなります。一方で善悪について全く観念なく神佛という仮相にも執着しない者たちは第一レベルです。この前三つはいずれも悟性が低く機会未到また根器浅い者たちなので外部から力を借りて彼らの霊性啓発し段階的な悟道目標達成へ向かいます。そして最後第一レベル的人々ならば自ら悟ったり自己救済できれば十分です。
先ほど述べた「外部から力」というものとは宗教、大師、神父、牧師、アホン(イスラム教徒指導者)、法師(僧侶)、経典、教義、お経、生き物解放(放生)、善事実践(行善)、法会(宗教集会)、世助け、人助け(慈善活動)、山登り(巡礼)、菜食主義(精進料理)、念仏、お経読誦…など有為法です。これら宗教的方法論は彼らがおこなう「悪から善へ転換」また「迷いから覚醒」させる手助けとなります。このためこれら受度化対象者とは宗教所謂「迷時師度」の範疇となります。一方第一層次的人々とは「悟者自度」の範疇になります。前三種人々はいずれも教師による指導・啓発・開示なしでは次へのステップへ進むことできません。しかし後者(第一層次)のこの種的人々ならば完全に必要ありません。彼ら自身のみならず自然界そのものこそ彼ら教師なのです。そのため彼らはいわゆる有為法や一般的宗教教師から指導されなくても良いでしょう。
さて私たちはどんな宗教法門で修行すべきでしょうか?実際それほど難しくありません。それぞれ宗教法門経典内容として表現されている意味について私たち自身納得でき、自身好き嫌いなく受け入れる方法論ならばそれこそ正しい選択なのです。それ以外の場合、それこそ我々既に誤った選択肢となります;すべて宗教法門経典・教義・偈語またその方法論内容~同じ哲理について理解しています。この一つ『理』さえ理解できれば世界中すべて宗教経典・教義・偈語内容理解できます。それこそ所謂『一理通萬理徹』等字句之真髄なのです。
しかしもし私たち長期間修行した後でもなおどんな宗教方法論では究極的解脱できないとか、この宗教こそ外道だとか、この宗教方法論最優れているとか、この宗教信仰邪説また低次元だと思った場合、それこそ我々まだ悟道していない証拠なのです。その時点では我々内心まだ『分別心』、『比較心』、『執着心』存在しています。そのような濁氣と障害持つ心情それこそ凡夫特有特徴だから、一旦已然として悟道した人物ではありません。
修行する際必ず貪欲・怒り・愚痴等『人性』取り除かなければ『佛性』達成不可能なのです。また先ず『仙格』備えなければ『成仙』可能性ありません。「仙」と「佛」は隠喩語句であり寺院や道場供奉されている泥塑木彫像など指さないのであって、それぞれ衆生愚癡救済目的として必要された『応身』なのです。「真佛」は本来有形界になく、「真経」紙面上にも存在しません;
もしこの理論透徹できない場合、多く経典読破したとしても千神万佛拝んでもなお凡夫特有状態変わらぬままとなるでしょう。それこそ禅宗二十八代祖師達摩祖師曰く:「達摩西来一字無,全憑心意用功夫,若在紙上尋佛法,筆尖蘸乾洞庭湖」という一句偈語之真意なのです。
ここから現在言われている殊勝なる宗教学習方法例えば:七日間瞑想会(佛七)、禅七(禅定)、山巡礼(朝山)、菜食(吃素)、法会(集会)、聖地巡礼(跑靈山)、浴佛儀式(浴佛)、晒佛儀式(曬佛)、坐禅(打坐)、香供養(進香)、境内巡礼(繞境)、苦行(苦行)、托鉢活動(托缽)、周回供養(繞佛)など…これ等皆只是一種教育手段而非真正的悟道趣向なのです。如果これら理論透徹できれば方向感失わず済むでしょう。結局老子や釈迦牟尼仏孔子ムハンマドイエス等古聖賢方皆未曾経験過こういう活動ではありませんでしたよね?