霊識初醒(14)
技術の競争が進む中、社会は急速に変化し、未来への不確実性が人々に安全感を失わせています。生活のプレッシャーは重い荷物のようで、心身をさらに不安定にしています。
そのため、心身症状は現代人の共通の病です。うつ病や躁うつ病、パニック障害など、心身に関する問題は誰もが多かれ少なかれ経験しています。ただし、その症状の重さには差があります。心の揺れ動きは生活の質に大きな影響を与え、家族にも波及します。
世の中で盲目的に追い求めることで、自分を見失ってしまいます。物欲の満足に溺れてしまい、心身ともに疲弊し、痛みと苦しみを抱えながら、生きる本質を忘れてしまいます。「貪」「瞋」「痴」が自らを縛り、意識には三毒が渦巻き、日常生活の中で良心に反する行動を少なからず取ってしまいます。孟子曰く、「人が禽獣と異なる所以は何か。それは良知があるからだ」と言っています。庶民はこれを捨て去り、君子はこれを守ります。禽獣と人間との違いは、人間には良知があることです。常に自分の良心を見つめ直し、それがまだ存在するかどうか確認すべきです。他者との関わり方や行動が自分の良知に反していないかどうかも考えるべきです。そのため古代聖賢たちが残した教えは後世への警告となり、人として生きる上で慎重さと恐れを持つべきだと教えています。すべての人事物に対して常に警戒しなければなりません。他者が悪事を働くことなく、お金や物欲を追い求めることで天良(善良な本性)を失ってはいけません。禽獣よりも劣った行為をすることになってしまいます。カラスは反省できるし、子羊は乳飲みで跪くことも知っています。それなのに、人間が禽獣より劣った行為をすることができるのでしょうか?
誰かが尋ねます。「私の心は不安定でどうしたらいいでしょうか?どのように修行すれば、自分自身を安定させることができるのでしょう?」他には方法はありません。ただ自己反省と懺悔のみです。自らについて問い直すことで、人として正しく生きているか、自分自身の役割を果たしているか確認する必要があります。経典には「君子は本務(基本的な義務)に努め、本立ちて道生ず」とあります。この道とは他ではなく、自分自身の役割を見出し、それに尽力することです。他者から得た名声や過剰な物質的享受ではなく、自分自身の日常業務(本分)で満足できれば、自ずと心にも恥じるところはありません。
人間は生まれてから言葉も覚えながら、新しい事柄について学び続けます。「観念」「知識」「認識」も同時に形成されます。そしてこの「観念」「知識」「認識」は成長や経験によって絶えず変化します。しかしそれらには成熟した整合性ある理路というものも欠けています。そして人々はよく自分自身をごまかします。「自分の認識こそ正しい」と思い込んだり、「自分の観念こそ正しい」と信じたりします。一度図書館へ足を運んでみてください。本当に何冊読んだでしょう?あなたが持っている知識など微々たるものです。また人生でどれほど多くの試練や困難を経験しましたか?あなた自身の「知識」「観念」「認識」で全て的人事物へ立ち向かった時、その煩悩から逃れることなどできないでしょう。また行動にも挫折や障害なしでは済まないでしょう?人生で困難な状況になった時、その軸線(中心)を転換したいのであれば、ただ心から始めるしかありません。その現在直面している困難というものこそあなた自身の「知識」「観念」「認識」に束縛され左右されているからです。その不完全さ、不十分さから解放され、新たな道筋(方法)を見出す必要があります。
禅僧曰く、「自らの心には独自の知恵があり、それには自己悟りが必要だ」と言います。また孟子曰く、「人間には学ばずして能う者がおり、それこそその良能である。また考慮せずして知る者がおり、それこそその良知である」と述べています。仏教では「衆生本来般若(智慧)の智恵」を持っています。それではどうすればそれら顕現させることができるのでしょう?ただ禅定によって努力するしかありません。禅定とは全て修行活動根本なのです。如果修行活動には禅定による力強さが欠けていた場合、水中無根浮萍(根無し草)のようになり、不安定になります。禅者とは境遇によって善悪への思念(考え)が起こらない状態です。そして定まった者とは、その心動じない状態でもあり外界環境によって揺れ動くこともありません。ただ座って静止しているだけではなく、その中でも動いていて静止しています。その状態について言えば喜怒哀楽未発之時(感情未発露)の無所無所静寂中(どこでも静かな場所)、物事との接触によって善悪への思念(考え)が起こらない状態なのです。また愛憎取捨(愛憎選択)は存在せず常なる静寂へ至ります。このような区別や執着(執着)は自己中心的評価基準によります。他者との比較から見る限り偏った見方になるでしょう。
by-劉鴻銘老師