霊識初醒(18)
修行。どこに入るべきか?外で学び、内で修める。外で学ぶとは、古の聖人や先賢から理を学ぶことだ。古人は天地の創造の功を参照し、宇宙と人生の変化の理を究明した。代々積み重ねられ、伝承されてきたものであり、古今変わることはない。
世に絶えることはない。これを聖学という。人は生まれながらにして、学ばずして天地万物の理を理解することは不可能だ。不断の学びと体験を経て、徐々に積み重ねていく必要がある。その結果得られるものはまだまだ一知半解であり、通透することはできない。それには時間と精力、そして頭脳が必要だが、これらは人間には限界がある。孔子は言った。「私は生まれて知る者ではない。古きを好み、それを求める者である。」最も便利な道は古人の知恵と経験を汲み取ることである。聖賢の書を多く読み、古今の完人に倣い、その善法を修め、自身の日常生活に取り入れることである。そして生活の中で体験することで、自ずと事半功倍となり、自身が通達されるのである。この理には障害がない。
内面を修め心性から行動へ入る。事は行動にかかっている。身を修め性を養う。その基準は自己にあり、他にはない。他者を悪くせず、自分自身を良くすることが重要だ。この人生の業を終わらせ、新たな災厄を生じさせないよう努め、本分に尽くすことで自然と成就する。禅家では単刀直入が求められ、直心道場として自心を見ることが重要だ。「動中不動」とはいかなるところか?難易度や心想によって生じるものである。事は易しいものでありながら難しいものとして求めてはいけない。想像しすぎずシンプルで素朴に構えるべきだ。「どこでも安心している」状態とは無所住であり、太虚のように円満で清静無為な状態であれば行動にも障害はない。
法には高下がなく、心識によって変わるものである。法とは心の作用そのものであり、行修には二つの力が存在する。それは自力と他力である。自力とは自己修行・自己悟り・自己証明であり、自心・自識・自性・自悟・自行・自証から成り立つものである。一歩一歩実践しながら進む身体的な努力だ。他力とは神仏菩薩による加持や導きである。霊識初醒者には大抵このような経験がある。不思議な力によって導かれているように感じながら徐々に修行への道へ進んでいく。「仙道」「神道」「仏道」「霊道」「聖道」はそれぞれ個人の因縁によって入っていくものであり、有無や良悪の区別はない。他力による導きが短期的には問題なくても、その後やっぱり自力に頼らざるを得なくなる。そして自己修行・自己悟りによって迷わず進む必要がある。他力によって長期間導かれる場合、それが習慣となり、一日でも見えなくなると何か失ったような感覚になることも多い。このような状況では智慧も育たず福慧も備わらず魔幻鬼迷についてどう判断すればよいかわからなくなる。このような状況に陥った多くの人々がおり、自分自身から抜け出せなくなる。そして他力によって制約され続け、「これは他力から指示されたものだからこうすべき」と口に出す。しかし実際には行修というものは自身との向き合いなのだ。また生活についても自身で背負うべき責任なのだ。この生命について誰よりも責任持つべきなのだから。他力はいったいどうやってあなた自身が直面し責任を持つ手助けになるというのでしょうか?もし一日突然目覚めたならば、それから遠ざかり、生身として慧命(智慧と命)を続ければ救われる可能性があります。それでも遅くありませんよ。ただ慎重になりましょう。
by-劉鴻銘老師